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元寇

鎌倉時代、日本は元から二度の侵攻を受けました。
そして二回とも神風が吹いて元の船団は壊滅し、日本は救われたと言われています。

しかし現実に神風(とされる暴風雨)が吹いたのは二度目の弘安の役だけであり、一度目の文永の役で神風が吹いたという記録はありません。
そもそも文永の役での元軍の兵力はわずか2万6000ほどと言われており、現実的に日本を制圧する意志などなかったのではないかと推察出来ます。事実、博多での交戦はたった1日だけで、元軍はすぐに撤退しています。

いわば、威力偵察だったのではないかと。
威力偵察とは、交戦が主目的ではないものの、敵情を探るためには交戦もするという偵察方法。

一方弘安の役は総兵力14万と言われており、これには非戦闘員もふくまれていたらしく、日本に恒久的な占領地を築く意志があったことがうかがえます。

鎌倉幕府は文永の役ではおよそ5000、弘安の役ではおよそ12万の兵力を動員して防戦に努め、元軍を撃退することに成功しました。

何故、鎌倉幕府は強大な元軍を侵攻を防げたのでしょうか。
精強なモンゴル騎兵は、わずか10万の兵力で東は朝鮮半島から西は東欧にまで勢力を広げたほどの実力があるのです。

一般的に海戦が苦手なモンゴル兵が苦手な海戦を行い、本来の実力が発揮出来なかったからだと言われますが、ちょっと違います。

特に弘安の役に動員された元軍14万は、4万が高麗兵、10万が旧南宋兵という構成でした。モンゴル兵はほとんどいません。
積極的に日本への侵攻をクビライに具申したと言われる高麗の兵は別としても、南宋はまだ元に征服されたばかりであり、クビライに対する忠誠心など低かったと推察され、士気も高いとは思えません。

また、弘安の役では旧南宋軍の到着が遅れ、博多と長門方面を守備する鎌倉軍6万と戦ったのは実質的に4万の高麗軍だけでした。

文永の役では元軍の集団戦術などに最初は苦戦した鎌倉軍も、弘安の役では20キロに及ぶ防塁を築くなどして準備を万全に整えていました。
さらに兵力の少ない高麗軍の間で疫病が流行したことなどもあり、1ヶ月半に及ぶ攻防で高麗軍は鎌倉軍に押され気味。司令官を討ち取られかけたことすらありました。

そしてようやく旧南宋軍が到着した頃、いわゆる神風が吹き荒れて高麗、旧南宋軍の船団はことごとく沈没してしまったのです。
こちらは暴風雨があったという記述が鎌倉側、高麗側、元側の記録に残されており、事実だったのでしょう。

この暴風雨が決めてとなり、元軍は総退却。大陸に帰還出来た兵は出陣時の1,2割程度だったそうで、事実上鎌倉軍の圧勝ということになります。

このように、日本が島国であったこと(これによりモンゴル騎兵の出る幕はなくなった)、元軍が属国と征服したばかりの国の混成軍で連携に欠いていたこと(結果的に兵力を小出しすることになり、鎌倉軍に各個撃破させる機会を与えた。また、士気も高くなかった)、地の利・天の時で鎌倉軍が圧倒的に有利だったこと(防塁を築くなどして容易な上陸を阻止し、しかも台風が日本列島を直撃する季節だった)など、鎌倉軍が勝利する要素が満載だったわけです。

歴史に「もしも・・・」は禁句ですが、もしも日本が大陸の一部だったとしたら、精強なモンゴル騎兵が鎌倉軍を撃砕し、日本は属国にされていたかもしれません・・・。

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